回復したい日々

いろいろ書いてます

これが私の生きる道

 

生活リズムをあまり意識しなくなるこのごろ、窓から差し込む光を基準に、活動時間の目星をつけていた。だからといってやるべきことがないわけじゃなくて、むしろやらなければならないことの目白押しなわけである。それでも、どうやったって身体はそう簡単には動いてはくれず、結局やるべきことはいつもギリギリになってようやく手をつけはじめる。そうして結局やるべきことだけをなんとか達成し、あらかじめやり始めた方が後々いいことはできず、うやむやのままその日を過ぎていくのだった。

そんな風に自堕落を極めた生活をしていても、空腹というのは毎日3回必ず訪れるものだった。もはやご飯を食べる、ということですら断罪されそうなほどに何もしてない日が続いていても、まるで精力的に活動していた1日のように食は進む。人間の胃袋は不思議なものである。しかも、美味しいご飯さえ食べてしまえばその日は幸せになる気がするので、ついでに脳みそも不思議なものである。

誰に会うわけでも、どこかへ出かけたわけでもないのにその日の夜には決まって風呂に入って身体を清潔にしている。ごはんは毎日食べるもの、それと同じくらい、風呂は毎日入るものという暗黙の了解がなされている。なぜ一日中家でじっとしているだけなのに風呂に入るのか、ということを何度も考えたことがあるのだが、それで入らなかった次の日、必ず身体中は不快感で覆われるのだから、風呂には毎日入った方がいいのだろう。自分が風呂嫌いではなくてよかったと思うばかりだ。どこかで風呂には毎日入らない方がいいという記事を読んだことがあるが、単にそいつが風呂嫌いなだけである。

1日も終わりの方になり、家族が寝静まるころ、僕はようやくやるべきことに取りかかったりしている。たとえば課題とか、就活とか、友達とのアレコレとか、そういうものである。手をつけてはじめて、さっさとやっておけばよかったという後悔が首をもたげるが、そうは言っても後の祭りだし、そんな反省が今後に活かされることもたぶんなかった。部屋でぶつぶつと文句を垂れ流し、たまに諦めたり諦めなかったりして、どうにかこうにかやるべきことをやりおおしていた。

そうしてようやく横になると、もう朝、とまではいかないが明け方に差し掛かろうとしていた。やるべきことをようやく終え、それでもまだ残っているやるべきことへの悲しみを胸に、今日も一日身体はさびついていくのだった。