回復したい日々

いろいろ書いてます

デッドマンズメランコリア

 

人間が苦手である。

仲良しで飲みに行くにも気疲れしない人は何人かいるし、人を好きになることも人並みにあるが、たぶん根本的に人付き合いが好きな人種では無いと思っている。幼い頃は誰とでも仲良くできたし、たぶん人付き合いは苦手じゃなかったような気がする。いつからか人嫌い、いや人苦手な自分が誕生して、そのまま成長してしまっていた。

けれど、たぶん大多数の人間がそうなんじゃないかとも思う。仲の良い友人と話す、というのと同じくらいの熱量で新たに関係性を構築することができる、という人の方が稀なんじゃないか。現代社会において人見知りだとか、いわゆる「陰キャ」なんて要素はもはやステータスで、それを皮切りにコミュニケーションが生まれる、だなんてことも往々にしてあるだろう。なので、僕のこの性格が変だなんて思うつもりはさらさらない。

最近は自称でも他称でも「変」という言葉を使ってその人を形容することが多い気がしている。僕はそういう人が苦手だ(そういう人がいたらごめんなさい)。変だというのは常識とか社会通念から大きくズレているときに使うもので、ちょっとした個性について語るときに使う言葉じゃないと思っているからだ。ちょっとマイナーな音楽を聴いているとか、寝る前にユニークな動画を見るとか、果物が嫌いだから先に食べてから他のものを食べるとか、そういうのはその人の生まれ持った習慣とか個性であって、決して「変」であるわけじゃないだろう、と考えてしまう。

人が自分じゃない人を指して変だと言う分にはまだいいが、相手が自分に対して変だと言ってくる時は特に居心地が悪くなってしまう。俺はいま無意識で変人アピールをしてしまったのだろうか、変だなと思われたいやつに見えているだろうか、この会話が聞こえている人はどう思うだろうか、だなんて1人相撲をとってしまう。自分になんて誰も興味はないことは分かりきっていても、そんな思考に陥ってしまうことをやめられない。きっと自分の中には、普通でありたくて仕方ない自分と、どこか普通であることに退屈していて、特別だと思われたい自分が棲みついているのだろう。その2人が拮抗し、なんとか普通である自分が理性を制御している。そんな状態でなんとかやってきているのに、変であることを躊躇いもなく口にできる人が信じられないのだ。自分というフィルターを通してしか、他人を量ることはできないのだから。

人を苦手にしているのは、結局のところ自分自身の性によるところなのだ。そんなことはとうの昔に結論づいている。こんなひねくれた見方をしないで受け入れてしまえばいいということもわかっている。けれど、どうやっても自分からは逃れられず、こんな言い訳をすることでなんとか社会から、友人から許されようとしているのであった。こんな些細なことにいちいち目くじらを立てる自分は変なのだろうか。いや、ただ陰気で性格が悪いだけか…。