生きていれば、必ず何かしらの影響を受けざるを得ない。それ自体が好きであれ嫌いであれ、気づいたら身体に染み込まれ、やがてはそれすら含め『自分』としてアップデートされていくものだ。ただの一つも影響を受けないなんてことは不可能で、思い返してみればどんなパラメータにも些細なきっかけというものは生じている気がしている。つまりオリジナリティなんてものは厳密には存在しなくて、すべて洗い出してみれば何か元となる出来事があり、しかしまたその元となる出来事にもなにか元となる出来事が存在して…では自分とは一体なんなのだろうか?というある種哲学めいた思考に陥ってしまうのだった。
なぜこんな自己分析に耽っているのかといえば、現在就活真っ只中だからである。自己PR、趣味、長所、失敗談…本当に興味あるのかよと言いたくなるような事項ばかりを尋ねられている毎日だ。とはいえそれを投げ出して生きていくほど勇気のある選択は取れず、結局どこがで誰かが吐いたようなPRをさもオリジナリティであるかのようにエントリーシートにつらつらと加入していた。
就職活動に対して異を唱えるつもりはさらさらないけれど、自分が一番信用ならないと考える僕のような人種にとって、自己分析なんてものは地獄そのものである。ここ毎日はその地獄の中を彷徨っていて、とうとうこんな場所でこんな愚痴を叫び出すほどには飽き飽きとしていた。
とはいえエントリーシートを書くのが面倒なだけで、就活自体は思っていたより楽しいこともあった。いつもより着飾った自分が熱心なフリをして企業の話を聞く様がなんとなく滑稽で、まるでひとつのコントを演じているような気分になる。僕は人の目を非常に気にする人間だが、ハッキリと正解が分かってさえいれば、それに準ずる行動を取ることに恥じらいはまるで感じないタイプだった。昨日もオンライン上でひたすらに頷き、グループワークでは知らない人と打ち解けた雰囲気を出し、質問をする時は自分でも驚くくらいの笑顔でそこまで興味のない質問をこねくり回してきていた。ここまで普段と違う自分が現れると、まるで二重人格であるかのようだった。
僕は自分をさらけ出すのが苦手な性分である。くだらないことや、自分の中でどうでもいいことに関してはなんの躊躇いもないが、好きなものややりたいこと、したいことなどを話すのはとてつもなく口にすることに抵抗を感じる。そう考えると、就活の場でテキトーなことを喋っているのが苦痛ではないのは少し合点がいく。まるきり嘘ではないものの、基本的に自分の核となるような要素には触れる必要もないので、ストレスなく話すことができているのだろう。この点を見破られて落とされることがないことを祈るばかりだ。
なんとなく暇だったから最近思った就活のことを書き連ねてみたところ、この記事が自己分析として1番適しているような気がする。「自分」なんてものは、意識しないで出てくる要素にこそ生まれてくるものなのだろう。というオチをつけて、今日はもう寝ることにした。明日も説明会あるし。