回復したい日々

いろいろ書いてます

僕はきっと旅に出る

 

今日も今日とてやることはなかった。普段ならば「やらなければいけないこと」は存在しており、それでもそのタスクの重さから目を背けて、暇だ暇だと嘯いているのだが、最近は本当にやることが何もない。気がつけば教育実習も就職活動も終わりを迎えていたし、大学の課題もいざ向かい合ってみればなんの歯応えもない軟弱なものだった。倒さなければならない敵はすべて倒してしまい、現状向かい合うべき現実はどこにもないのである。

こんな状況は大学1年生ぶりだった。コロナウイルスによって自宅待機を強制されていた3年前を思い出す。あの頃は、インドアな僕すらも凌駕するほどの退屈さに、やれ掃除だの料理だのゲームだのと色々なことに手を出していた。ダルゴナコーヒーを作ってみたり、チョコケーキを作ってみたり、どうぶつの森をはじめてみたり…。思い返せばブログを本格的に書き始めようと決めたのもその頃だったような気がする。なんにせよ、3年ぶりにその波が押し寄せてきていた。繰り返すが、人はあまりにも暇だと流石に新しいことに手を出すようである。

相も変わらず生活習慣が乱れている僕は、外が明るくなる早朝の4時ごろ外に出て、ふらふらと散歩をすることにした。前々から気になっていた、23年間一度も通ったことのない道がある。いったいあの道はどこへ続いているのか、探究するにはあまりにもちょうどよいタイミングだ。コンビニで飲み物を買い、その道をひたすらに歩く。さっきまでは気にならなかった蝉の鳴き声が一層やかましくなったような心地がした。

その道の地面はコンクリートの地続きだが、周りの景色からビルやマンションは姿を消していた。こんな住宅街が存在したのかと目を疑うばかりである。どちらかといえば田舎にも近いような環境だった。外から丸見えの洗濯物、不躾に貼られている選挙ポスター、前から歩いてくるお年寄り。歩いているうちに本当に地元を歩いているのか不安になっていく。いつの間に手の甲にとまっていた虫に驚き、払いながら歩を進め、ようやくその田舎道を抜けた都会らしき場所に躍り出た。

都会らしい、というより都会ではあるのだが、僕が来たことのないエリアであったために新鮮さは桁違いである。新しい景色や不必要な歩道橋、弱すぎる自動販売機にすぐ赤になる横断歩道など、どうやら自分の地元がエンタメに弱いことがわかる町並みだった。加えて久々に履いたサンダルは両足ともに破損し、僕の散歩を妨げ始めていた。ようやく少し見栄えの良い公園を見つけ、安心しながらベンチに腰を落ち着ける。ボロボロになったサンダルを見かねてか、あるいは若者の物珍しさからか、ウォーキングをしていたおばあさんに声をかけられた。なんとなくマスクをつけ直し挨拶をすると、僕の肩に虫が止まっていることを笑いながら教えてくれた。恐れ慄き、大慌てで肩の虫を払うと、おばあさんは笑っていた。

不慣れなことはするものではない。ほぼゴミと化したサンダルで早速帰路を辿り始めていた。とはいえ、自宅からはずいぶん距離もあるし、新たな方向から来たためにどのくらいの時間がかかるのか見当がつきづらい。なんとなく来た方向を戻ってみてはいるが、なんとなく同じ道を選ばなかったせいで合っているのかすらもわからない。途中、小学校の遠足で来るような濁った池の上に架かる橋のようなところに出た。蝉の鳴き声だけではなく苔むしたその澱んだ池は僕のテンションを下げ、早く通り抜けようと必死だった。しかしいかんせんサンダルがお釈迦になっているから、どうしてもゆっくり歩かざるを得ない。そばに転がっている蝉の死骸を越え、橋を渡りある大通りに出ると、いつか見たような景色が眼前に広がった。ここに繋がるのか、とつい声に出してしまう。長々と歩いた気持ちだが、こうしてみるとあっけないものである。すでに時間は6時をまわり、人通りも多くなっていた。

家に戻り、軽くシャワーを浴びて自室で横になった。冷房の効いた部屋はなによりも快適であり、こんな時期にわざわざ外に出て散歩などするものではないと思わせてくれる。やることがない、というのは素晴らしいことである。慣れないことはするものではない。窓にはりつき、こちらを見ている蝉なんて見ないふりをした。早く夏が終わってほしいものである。