回復したい日々

いろいろ書いてます

文学少年の憂鬱

 

桜は散るからこそ美しいとはよく言うが、僕は咲いている時だって負けず劣らず美しいと思う。人間だっていつかは死ぬからこそ悔いのない人生を送ろうとするが、悔いがあるかどうかなんてその時になってみないとわからない。終わりを想定し、逆算して生きるのではなく、いまという時を一生懸命に生きることだって、間違いなく美しく、気高い生命の息吹を感じられると僕は思うのだ。

 

さて。

夏休みが終わろうとしている。

大学生の夏休みは長いと聞いていた。実際かなり暇を持て余している時もあったし、まだまだ休みあるじゃん!と余裕綽々に構えていたときもあった。が、いざ終わりを迎えるとなると自分の中で心の整理はつかず、あれもこれもと、成し得なかった思いたちが無惨に夏へと取り残されていく。あと2回、目を閉じれば登校という名のデスマーチが幕を開け、眠い目を擦りながらどうでもいい授業に耳を傾け、感じてもいない知的好奇心を無理矢理に刺激しては大した内容でもない感想を提出しなくてはならない。これらを苦行と言わずしてなんと言うのか。友人と会えるとはいえ、所詮は大学、そこまで親密な間柄になったかと考えると首を素直に縦に振ることはできず、むしろまだ掴みかねる人の方が多い。生来人見知りであるところの私は人付き合いが不得手であるため、大学のようなある程度自由度が高くそれ故に自身の行動力が鍵を握るようなところは非常に苦手なのである。嗚呼悲しき己の性、嗚呼嘆かわしき大学生活よ………。

と、現実逃避をしたところで否応なくその日はやってきてしまう。ミミズもオケラもアメンボも、みんなみんな懸命に生きている。友達かどうかはもう少し様子を見たいところだが、ひとつ確かなのは僕はヒトもムシも苦手だということだ。いい加減ヒトくらいは得意にもなりたいが、同族嫌悪というやつか、どうにもこうにもうまくいかないのが現状である。

 

というわけで、今しがた学校を終えてきた。結局のところ学校への呪詛を垂れ流したところで、どこか自分の中には学校という現実を堅く見つめていたらしく、先生が教壇で何事かご教授くださっているのを違和感なしに受け止めていた。つまり、結局のところ僕の熱意はそこまでであり、爆破予告を敢行するほどのメンタリティは保持していないのである。まったく、なんて情けない人生だろうか。いっそのことどこか遠くへ行ってしまいたいものである。まあ、結局それもすることなしに、明日も元気に学校へ行くのだけれど。