回復したい日々

いろいろ書いてます

のびしろ

 

いつかもどこかで、「あまりなにかに深くハマることがない」ということを言ったかもしれない。どちらかというと「狭く深く」という性分で、いろんなことに精通しているというよりも、ある特定のジャンルに長けているというタイプなのである。そういうわけで最近の流行りや、みんなが面白いと思っていることにもイマイチハマりきれないということが多かった。

そうは言っても友達との遊びの中で、「そこまでハマってはいないけど友達がすごくハマっているからそれに付き合う」なんて機会は往々にしてある。そういう時に「ハマってないから行かない」だなんてことは言わないし、前提として友達と遊ぶことが既に楽しいことなので、だいたいなんでもノルマ以上にその日を楽しめるものだ。たとえダーツにパチンコ、映画に恋愛リアリティーショーなど多岐に渡っても、である。

最近、友人と麻雀をした。年に一度行われる「麻雀最強戦」なるものである。これまでは例のごとく麻雀にもまだハマりきってはいなかったので、たまに雀荘へ行っても役は覚えられず、頑張ってリーチをするのが関の山だった。とはいえ「最強」が懸かっている大会として、さすがに丸腰のカモ状態で行くわけにはいかない。優勝はできなくとも善戦をし、成長を認められるような戦いぶりをすべく前日まで鍛錬に励んだ。8人で行われたその大会で、初出場の僕は、なんと4位だった。

メダル圏外ではあるが、これは僕にしてみればかなりすごいことである。言うなれば番狂せ、ダークホースとしての地位をほしいままにしていたのである。最下位じゃなければいいな、くらいの気持ちで挑んだ大会で、一位をその手に掴みかけたと言えば伝わるだろうか。なんにせよ、その日の僕は珍しく手に汗を握るほど熱中していた。

ハマる、というのはまさにこの瞬間のことを言うのだろう。教わってやってみてあんまり、というのではそれ自体の価値を扱いきれないことを知った。能動的に動きトライアンドエラーを繰り返すこと、そこまでしてはじめてハマるのかハマらないのかということがわかるのである。熱中できる、ハマるということはとても贅沢で、またそうなれる環境はとても幸せなことなのだと僕は感じた。

 

逆に考えると、ここまで長い道を辿らずしてハマる人も存在すると考えると、そういう人たちの幸福度はとても高いんだろうなと思う。これからは流行りモノだからと一旦距離を置くような天邪鬼はやめて、純粋に自分が楽しくなれることを追求していきたい。サウナは例外として。

ゆるふわ樹海ガール

 

生きていれば、必ず何かしらの影響を受けざるを得ない。それ自体が好きであれ嫌いであれ、気づいたら身体に染み込まれ、やがてはそれすら含め『自分』としてアップデートされていくものだ。ただの一つも影響を受けないなんてことは不可能で、思い返してみればどんなパラメータにも些細なきっかけというものは生じている気がしている。つまりオリジナリティなんてものは厳密には存在しなくて、すべて洗い出してみれば何か元となる出来事があり、しかしまたその元となる出来事にもなにか元となる出来事が存在して…では自分とは一体なんなのだろうか?というある種哲学めいた思考に陥ってしまうのだった。

なぜこんな自己分析に耽っているのかといえば、現在就活真っ只中だからである。自己PR、趣味、長所、失敗談…本当に興味あるのかよと言いたくなるような事項ばかりを尋ねられている毎日だ。とはいえそれを投げ出して生きていくほど勇気のある選択は取れず、結局どこがで誰かが吐いたようなPRをさもオリジナリティであるかのようにエントリーシートにつらつらと加入していた。

就職活動に対して異を唱えるつもりはさらさらないけれど、自分が一番信用ならないと考える僕のような人種にとって、自己分析なんてものは地獄そのものである。ここ毎日はその地獄の中を彷徨っていて、とうとうこんな場所でこんな愚痴を叫び出すほどには飽き飽きとしていた。

とはいえエントリーシートを書くのが面倒なだけで、就活自体は思っていたより楽しいこともあった。いつもより着飾った自分が熱心なフリをして企業の話を聞く様がなんとなく滑稽で、まるでひとつのコントを演じているような気分になる。僕は人の目を非常に気にする人間だが、ハッキリと正解が分かってさえいれば、それに準ずる行動を取ることに恥じらいはまるで感じないタイプだった。昨日もオンライン上でひたすらに頷き、グループワークでは知らない人と打ち解けた雰囲気を出し、質問をする時は自分でも驚くくらいの笑顔でそこまで興味のない質問をこねくり回してきていた。ここまで普段と違う自分が現れると、まるで二重人格であるかのようだった。

僕は自分をさらけ出すのが苦手な性分である。くだらないことや、自分の中でどうでもいいことに関してはなんの躊躇いもないが、好きなものややりたいこと、したいことなどを話すのはとてつもなく口にすることに抵抗を感じる。そう考えると、就活の場でテキトーなことを喋っているのが苦痛ではないのは少し合点がいく。まるきり嘘ではないものの、基本的に自分の核となるような要素には触れる必要もないので、ストレスなく話すことができているのだろう。この点を見破られて落とされることがないことを祈るばかりだ。

なんとなく暇だったから最近思った就活のことを書き連ねてみたところ、この記事が自己分析として1番適しているような気がする。「自分」なんてものは、意識しないで出てくる要素にこそ生まれてくるものなのだろう。というオチをつけて、今日はもう寝ることにした。明日も説明会あるし。

これが私の生きる道

 

生活リズムをあまり意識しなくなるこのごろ、窓から差し込む光を基準に、活動時間の目星をつけていた。だからといってやるべきことがないわけじゃなくて、むしろやらなければならないことの目白押しなわけである。それでも、どうやったって身体はそう簡単には動いてはくれず、結局やるべきことはいつもギリギリになってようやく手をつけはじめる。そうして結局やるべきことだけをなんとか達成し、あらかじめやり始めた方が後々いいことはできず、うやむやのままその日を過ぎていくのだった。

そんな風に自堕落を極めた生活をしていても、空腹というのは毎日3回必ず訪れるものだった。もはやご飯を食べる、ということですら断罪されそうなほどに何もしてない日が続いていても、まるで精力的に活動していた1日のように食は進む。人間の胃袋は不思議なものである。しかも、美味しいご飯さえ食べてしまえばその日は幸せになる気がするので、ついでに脳みそも不思議なものである。

誰に会うわけでも、どこかへ出かけたわけでもないのにその日の夜には決まって風呂に入って身体を清潔にしている。ごはんは毎日食べるもの、それと同じくらい、風呂は毎日入るものという暗黙の了解がなされている。なぜ一日中家でじっとしているだけなのに風呂に入るのか、ということを何度も考えたことがあるのだが、それで入らなかった次の日、必ず身体中は不快感で覆われるのだから、風呂には毎日入った方がいいのだろう。自分が風呂嫌いではなくてよかったと思うばかりだ。どこかで風呂には毎日入らない方がいいという記事を読んだことがあるが、単にそいつが風呂嫌いなだけである。

1日も終わりの方になり、家族が寝静まるころ、僕はようやくやるべきことに取りかかったりしている。たとえば課題とか、就活とか、友達とのアレコレとか、そういうものである。手をつけてはじめて、さっさとやっておけばよかったという後悔が首をもたげるが、そうは言っても後の祭りだし、そんな反省が今後に活かされることもたぶんなかった。部屋でぶつぶつと文句を垂れ流し、たまに諦めたり諦めなかったりして、どうにかこうにかやるべきことをやりおおしていた。

そうしてようやく横になると、もう朝、とまではいかないが明け方に差し掛かろうとしていた。やるべきことをようやく終え、それでもまだ残っているやるべきことへの悲しみを胸に、今日も一日身体はさびついていくのだった。

明るい未来

 

年の瀬があまり好きではない。なんだか無性に悲しいし、別にめでたいと思うほど素晴らしい一年を過ごした実感も別にないからだ。けれどせっかくこうして文字に残す媒体があるんだったら、たまにはこうして振り返ってみようと思った。

と言っても、どうしても直近の思い出ばかりが目先につくものだ。例えば彼女と別れたとか、同じサークル内の人と付き合ったからその後のイベントがちょっと気まずいとか、悲しいからマッチングアプリを始めてみたけれどあんまりうまく行ってなくてやるせないとか、そんなしょうもなくて下品な話ばっかり出てきてしまう。どうして男というのは、女性が絡むとこんなにも情けない思考回路に陥ってしまうのだろうか。

それだけなわけがないと思って色々と思い返してみれば、そういえば先輩との交流が特に多かったような気がする。中学高校は、学年やクラスというものがカッチリと分けられている以上、先輩付き合いというものがどうしても堅くなってしまう。それに引き換え、大学生はそのような概念も少なく、サークル内であれば先輩同輩後輩と、あまり関係なく密な関係を築くことが多い。僕は先輩も後輩も中高時代はあまり好きではなかったが、大学生になって初めて友達と言っていいくらい仲の良い付き合いができているように感じられる。年の差は関係なく気の合う合わないというのは存在しており、僕の視野が狭かっただけなのだろう。

他にも、こうして文章に書き起こすことも増えた。少し前までは今以上にへたくそな文章で、上手に言語化できない自分にうんざりしてしまうことも多かったが、少しずつ上手に書き起こすことができるようになってきた。本当にわずかながら反応も貰えるようになってきた。自分で言う日が来るとは思わなかったが、こんな稚拙な文章に反応がくると本当に嬉しい気持ちになる。一回だけ元カノの愚痴日記を書いたらそれがバレて怒られたのも、今となっては良い思い出だ。

個人的には1番の変化なのかもしれないが、服装に気をつかう意識が芽生えたのも今年からである。僕は服装なんてなんでもいいでしょと思ってしまう人間で、あからさまなダサささえ避けられれば、もはやなんでもいいと思う人間だった。まあまだ今もギリそうなのだが、もう大人を迎え始める時期であり、ドレスコードや身だしなみの重要さを生半可に知ってしまい、あまりにも粗末な服装ばかり着ているように考えてしまった。服をキメるなんてダサい、誰もお前のことなんて見ていない。そんな無駄な尖りが1番の害である。そのような自分の自意識にムチを打つことができるようにもなってきた。大人になるというのは、こういうことなのかもしれない。

あと1番の理由は彼女と別れた理由の一つが僕の服装があまりにもダサい、もとい雑だからである。結局元カノのことで頭がいっぱいだったようだ。なにがあったかなとフォルダを見返してみても元カノの写真ばっかりだし、今年を振り返ると血まみれになってしまうので、この辺で終わりとさせていただきたい。来年こそ、良いお年を!

 

特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと

ソラニン

 

実家で暮らしていると、とくに何の労力を割かずとも毎日を生きることができる。ご飯や洗濯、掃除などは基本的に親の仕事になっていて、学生である僕は学校へ通ってさえいればお咎めはない。そんな生活に慣れていると、本来は当たり前ではないはずの人生や生活はたちまち自己の一部として磨耗してしまう。この気づきですら、なにか大切だったものを失ってからようやく目の当たりにするのだろう。

学校からの帰宅途で、僕は彼女に別れを告げられた。彼女は元来女性の方が好みであり、最近になってそれをさらに自覚したらしい。 嫌いになったわけではないんだけど、いまの気持ちのまま付き合うのは浮気も同然で、そんな申し訳ないことはできない というのが彼女の言い分だった。

僕は突然のことに頭を抱えるどころか、状況を理解することができなかった。いや、厳密には突然ではない。最近のことだが、なんとなく彼女の反応が悪かったり、つれない態度を取られていた認識はあった。けれどもそんなものは一過性のもので、深く考えなくてもよいだろうと見て見ぬフリをしていたのである。とはいえ、その弊害がこんなにも早く現れるとは思わず、とにかくその時は一旦後日に回し現実から目を背けることしかできなかった。

その日が来るまでは1日がずっと憂鬱で、これまでの写真やもらった手紙、LINEのやりとりなどを見返しては、もう戻れない楽しかった日々へと想いを馳せることで心を紛らわせた。それでもやはり食事は喉を通らないし、普段あんなに寝ているのに、この時だけはうまく微睡むことができないほどに不安な日々が続いた。今日の話は何かの間違いで、ドッキリか何かなのではないかとどれだけ考えただろう。

けれど、当日になってしまえばあっさりとことは運んだ。まるでドッキリなんかではなく、つつがなく僕らの関係は終息へと向かっていった。しかし顔を突き合わせて喧嘩別れなどをすることはなく、何気ない雑談やこれまでの想い出を語り合い、円満に終わりを告げることができた。お互いにこれまでの感謝と、これからも友達としてよろしくね、という明るい未来への展望を交わし、笑顔で恋人関係を解消することができた。

いや、半分は嘘だ。僕は途中で泣いてしまい、若干ではあるがシリアスな時間が流れていた。彼女も瞳に涙を浮かべていて、楽しい時間を過ごせていたのは独りよがりではなかったんだと知ることができた。とはいえ、別れ話であんなにも涙を流したのはこれが初めてである。

自宅へ帰る時には、夕食の時間になっていた。どうやら涙を誤魔化すのにかなりの時間を外で過ごしていたらしい。廊下を歩くや否や、両親のやかましい言い争いが耳に入ってくる。それらを振り払い自室で1人横になると、楽しかった思い出たちや、もう隣にはいない女の子の、向日葵のような笑顔がふと頭を過ぎる。悲しい結末を辿ってはしまったが、素敵な恋愛だったことには間違いなかった。いつかまた2人で会うことがもしあれば、あの後こんなにクサい記事を書いていたんだよ、なんて言いながら2人で懐かしい話をしたいものである。両親の笑い声に耳を傾けながら、そんなことを考えていた。

天体観測

 

何度か触れてはいるが、僕は現在、軽音楽部に所属している。パートはベースだ。

ベース自体は中学3年生の頃には持っていたが、いかんせん一人でどう練習していいのかわからず、大学生になって入部するまでずっと部屋のインテリアとしての役割しか果たしていなかった。コロナを超えた大学2年生、その時に軽音部に入らなければ、中高と何も変わらない、偏屈なこれまでの僕のままで一生を終えていたと思う。

初めはなかなか馴染むことができなかった。初心者歓迎を謳ってはいても、やはり初心者と経験者での馴染むスピードには雲泥の差がある。もともと僕は人間としてなにか特殊なものを持っているわけではない凡人であるので、初心者であってもなにか人を惹きつけることはできなかった。もし初期から同期が多くいたら、僕自身の存在はかなり霞んでいたことだろう。このことだけは、コロナに感謝できる唯一のことだった。最初は馴染めないことに嫉妬にも似た絶望を抱いていたけれど、少し経てば僕という存在は受け入れられ、仲良くしてくれる先輩や後輩も増えた。僕は徐々に、軽音部員としての自分に違和感を持たなくなっていった。

約1年間、いろんなことがあった。ベースは多少は勝手がわかるようになってきたし、軽音の活動以外でも遊びに誘われ、自分ひとりでは経験すらなかっただろうさまざまなことができた。総括してみればかなり恵まれた大学生活を謳歌していると言えるだろう。

音楽の面でも、たとえば僕は一つのバンドをひたすらに聞くことが好きだが、軽音に触れていると友人たちから様々なバンドが僕の耳に入ってくる。そうして見聞が広がっていけば、僕も音楽の楽しさというものがわかってくる。陳腐な言い方だが、音楽の素晴らしさというものを肌で感じ続けた1年間だった。

しかし、それと同時に周りとの距離も感じている自分がいることにも気がついた。冒頭でも触れたが、やはり僕は初心者であり、いろいろな曲に詳しいわけでも、自発的に音楽への興味を持っていた訳ではないため、こと音楽の話となると自分の知識不足に尻込みしてしまい、わかったような相槌を打つことが多かった。目を輝かせて音楽について話す人たちの前で、僕が偉そうに講釈を垂れることなど到底できなかった。

また、ベースも多少弾けるようになったとは言え、初心者に毛が生えた程度のものだ。元来緊張しいなため、ライブとなると練習通りに弾けるどころか、うまくできていたところもミスしてしまった。一緒に演奏をしてくれた人はそんなこと気にせずに楽しかったと言ってくれはするが、僕は自分が足を引っ張っている事実から目を背けることはできなかった。思い返してみれば、僕はベースを弾いて楽しかったことよりもうまくいかずに後悔したことの方が遥かに多い。こんな情けないこと言えないし、だったらもっと練習しろって話だが、そういう言葉はグッと堪えて背中をさすってくれたらありがたい。

この1年間で、僕はプレイヤーとしてより消費者として音楽に触れることが好きなんだろう、ということがわかった。たぶん、軽音楽部を引退したら自主的にベースに触れることはないと思う。それでも、何度かあった楽しかったライブの日や、自分なりにうまくいった時の興奮は一生忘れないだろう。ベースを弾かないからと言って、僕の中から軽音楽部の思い出が消えるわけじゃない。むしろ、僕という人間からしたらもったいないくらいの輝かしい記憶と共に人生を歩き、いつか振り返って笑うことができるだろう。

 

明日は、学園祭がある。3年生として、軽音楽部を引退する前の最後のライブで、僕はベースを弾く。これを読んでくれた誰かが、頭の片隅で僕を応援してくれたらありがたいです。悔いのないように頑張ります!

メモリーズ

 

半袖で過ごすには肌寒い季節が訪れ、とうとう夏も終わったかと思えた。僕は基本的に寒い季節の方が好みなため、ようやく長袖を着ることができるとわずかな喜びを噛み締めていたのだが、そんな期待を裏切るかのごとく暑い1日はやってくる。大掃除のついでに衣替えも済ませた翌日のことだった。目を覚まし、肌で感じる若干の熱に若干の気だるさを覚えつつ、そう簡単に夏はくたばってはくれないのだと感じた。

学校へ行く際、気まぐれに水筒を作っていくのだが 今朝は少し寝坊したこともあって水筒は持参していなかった。なんとなく水を買うのは馬鹿らしく、とはいえジュースが飲みたい気分でもなかったため、昼休みの食堂で飲む水を折り返しとした。久々に訪れた食堂はやはり混んでおり、そのことからも学校はもう始まってしまったこと、休みはもう終わっていることを感じる。久々に食べた唐揚げ丼は、久々なのにいつも通りの味がしていた。

授業が全て終わり、もう学校に用はない。しかし、久々に学校へ来たのに友人と1人も会わず、会話せず帰るのはなんだか寂しく、用事もないのに普段からそこまで話さない後輩の群れに加わった。人と会話する喜びと、少し浮いている自分と後輩たちとの若干の戸惑いのギャップを身に受ける。慣れないことはするものではないと思った。

結局、顔見知りの友人と巡り合うことはできず、少しゆっくりと駅までの道を歩いた。僕と同じタイミングで帰宅する人も多く、雑踏の中に紛れた自分の足音は、後ろから走ってきた自家用車のエンジン音によって完全にかき消されている。耳から流れる音楽までもがかき消されてしまい、スマホを操作して音楽を巻き戻す。そうして流れ直した音楽に心を委ね、明日から始まる繰り返しの日々に思いを馳せた。