食べることが好きだ。
嫌いな人を探す方が難しいだろうが、1日の生活の中で食事に対するエネルギーを特に重要視している。美味しいものを食べお腹が満たされるというのは、それだけで他には代え難い感動である。無論、高価だったり特別に美味しいお店に行かなくともいい。自分で決めた、「これが食べたい」というものを見定め、それに対する評価が自分の期待値を上回っていればそれだけで幸せなのである。つまりは高級フレンチであっても、コンビニで買った菓子パンであっても、私にとっては同価値の素晴らしい逸品になりえるものなのだ。
しかし、食事に対する好きのエネルギーと同じくらい、お腹いっぱいすぎる状態は嫌いである。腹八分目とはよく言ったもので、胃のキャパシティ限界かあるいはそれ以上に達するほどに食事を行うことは非常によろしくない。これは太るからとか、健康上よろしくないからとかそういった話ではない。単純にお腹いっぱいすぎる状態は幸せではないからだ。身体は重く、腹は苦しく、その後何もする気にならない。なんなら体調が悪いような気さえするし、その後すぐにお風呂に入ることができない。腹が満たされるという状態は、本来の「満たす」の言葉を超えたもっと繊細な状態であると言えるだろう。
とはいえ、お腹が減っている状況ではお腹いっぱい食べるという欲求が頭を占めている。本来なら並盛で充分なところを大盛りにしてしまったり、もう食べる必要はないのにデザートを食べてしまう。飲食店側もその人間心理を理解しているからか、並盛と大盛の値段を一緒にしてきたり、キャンペーンで大盛が無料だといかがわしい勧誘をしてきたりもする。平常の精神であれば突っぱねることができるはずなのに、なぜか私はこれらを断ることができない。好きというエネルギーが引き起こす言動、嘆かわしき愚行である。
たとえば昨晩、私はラーメンを食べた。例によってたくさん食べた。食べ始めはなんたる幸せかと天にも昇る心地だったが、食事が終わるとすぐに後悔した。残ったものは絶望と、後片付けの必要なプラスチック容器のみである。もう二度とラーメンなんて食べない、食べたとしてもお腹いっぱい食べない、そう心に誓ったのだ。それが今朝目を覚ましてみれば、既になにか食べたい気持ちで頭がいっぱいになっている。しかしよくよく考えてみればそこまでお腹が空いているわけではない。しかし、なんとなく1日3食食べるべきという義務感から、私はまたも懲りずご飯をお腹いっぱい食べようとしている。きっとこれを書き終われば、私はきっと米を炒め始めるだろう。
いや、見栄を張った。たぶんまたラーメンを食べる。こいつラーメンばっかり食ってるよと思われるのが恥ずかしく、炒飯にして誤魔化そうとしてしまった。なにを食べてもいいはずの昼飯まで、ブログを一枚挟むと常識人ぶろうとしてしまう。私は浅ましい人間である。仕方ない、お湯を沸かすとしよう。