回復したい日々

いろいろ書いてます

ex.人間

 

丁寧な暮らしに憧れている。実家暮らしの時はそもそも自室にしか自分だけの空間と生活は存在していなかったため考えてもみなかった。東京を離れ一人暮らしをしているというのに、汗水流して稼いだお金を使うアテもなくギャンブルに突っ込んで増えたり減ったりと一喜一憂する日々は丁寧とは程遠いだろう。未だ手に入らぬ丁寧な暮らしを獲得すべく、わたしは家を飛び出した。

 

求めているものはYogiboである。いわゆる人をダメにするクッションだ。「人をダメにする」だなんて売り文句、よほど座り心地に自信がないとつけられないだろう。なにより、ダメになることが確定しているものを購入するその懐こそ、生活に余裕があるという何よりの証左ではないか。ベッドか地べたに座りパスタを食べる毎日から、Yogiboに座ってパスタを食べる毎日を夢想していた。

Yogiboは商品名でもあり、店名でもあった。Yogiboは欲しいと思わない限りその存在が眼前に現れない。わたしはYogiboに入り一人暮らしに相応しいYogiboを探した。思っていたよりもバリエーションは豊富で、やたらでかいものからやたら小さいものまで多種多様である。ふだんは店員に声をかけられないよう縮こまりながらショッピングを嗜むが、今回はそういうわけにもいかず、話しかけてほしいオーラを出しつつYogiboを巡った。

店員と話を進め、試座を何度か試しているうち、ほしいYogiboの見当がついた。実際本当に買うとなるとどこか他人事のように思える。Yogiboは自分以外の家にしかないものだと思っていたからだ。いや、クッション自体はどこの家にもあるが誰もYogiboであると言わない。Yogiboは本当に人気なのだろうか。Yogiboほど有名なのに活用事例を見たことがないものはないかもしれない。この世に存在しているのだろうか、ひょっとしてわたしがYogiboを購入した第一号かもしれない。人類史上初めてクッションによってダメになる存在として、より身が引き締まる思いだった。

新卒であるところのわたしは当然車など持っていない。配送料をケチって持ち帰りを選択したことを店から出てすぐに後悔した。この炎天下の中、それなりに大きなYogiboを抱えて帰るのはなかなかに恥ずかしい。Yogiboを入れた袋にも大きく「Yogibo」と独特のフォントで書かれている。誰がどう見てもYogiboを購入したことが丸わかりである。炎天下の中、ダメになるために購入したものを苦労して持ち帰るとは皮肉なものだ。Yogiboは関わるだけで因果が狂い、ダメへの道を歩き出すのかもしれない。子供がちらりとこちらを見る視線を気にしないようにしていた。

 

シャワーを浴びて綺麗になってから、わたしは開封したYogiboに腰掛けた。ベッドとも地べたとも違う、なかなかに心地よい座り心地である。なにより家に生活必需品以外の、わたしが気持ちよくなるためだけの物が家に鎮座している事実こそ、なにより心地よい現状となっていた。これから家に帰ればYogiboがある毎日を送ることを考えると、つい頰が緩む。ネイビーブルーのYogiboに腰掛けてパスタを食べながら、これからの生活に想いを馳せた。