回復したい日々

いろいろ書いてます

自室内復讐論

 

かい汰という名前は、僕の本名をもじって生まれたものだ。ネットリテラシー的な観点から本名を隠しているわけではなく、いやそれもあるけれど、僕の本名、特に名字は珍しいのである。

珍しいとどうなるか。バレちゃうのだ。該当する方がいたら申し訳ないが、たとえば「佐藤」という名字を持っていたならその可能性を考慮する必要は無い。いちいち佐藤という音声に反応して知り合いを探すのは骨折り損である。しかし、これが「百日紅」だったらどうだろう。ファミレスの順番待ちで呼ばれる百日紅、迷子の放送でデパートに鳴り響く百日紅、テレビのインタビューを受ける百日紅(23)...。格段に知り合いである確率が高まる。名字が珍しいと、このような弊害があるのだ。

そして名字が珍しいと、初見で正確に読める人はほぼいない。「1名様でおまちのヒャクニチコウさま~」、「ヒャクニチコウゆうきくんがまいごになっております」、「会社員 百日紅 勇気(23)」など、間違いのオンパレードである。はじめは懸命に「さるすべりです...」と訂正するかもしれないが、しばらくしたらヒャクニチコウである自分を受け入れ始めるだろう。幼い頃は自分の珍しい名字に酔いしれるものの、やがては酔いしれる以外にメリットがない事に気がつくのだ。

そしてもうひとつ、漢字間違いである。僕はどちらかというとこちらのミスをよくされる。勇気くんを例にとるならば「勇紀」とか「優気」とか、どこか喪失感のあるミスをされる。この間違いの面倒なところは、名字とは違いしっかりと「ゆうき」と認識できているところだ。経験上、このミスは指摘してもまたどこかで繰り返されるので、二度目以降はいちいち言わないのが吉である。

長々といろいろ述べてきたが、要は「間違えられると悲しいし、どうしたらいいかわかんない」のである。曖昧に笑って相手が異変に気がつくのを待つか、死ぬまで一生間違いを訂正し続けて生きるのか、もうすべてを一身に受け入れるのか。周りには意外と訂正する人が多い気がしているが、僕はもう受け入れることにしている。とはいえ、何回も間違えられると多少は悲しい気持ちにもなるし、それが長年の友人ならばそれは尚更ショックである。珍しい名字はやはり誇らしいし、下の名前の漢字も好きだが、これまでのような理由で手放しで抱きしめる気にはあまりなれないのが現状だ。

 

さて、日ごろそんな憂鬱な気持ちを抱いていたとしても、新年を迎えれば吹き飛ぶものだ。バイトのシフト表に印字された漢字が自分と異なっていたとしても、そんなことは水に流そう。そんな寛大さを新年、そしてお正月はくれる。我が家はお正月にはピザを頼むことが許されており、年越しそばだけではなくちょっとしたパーティになる。新年の特番を見ながらピザに舌鼓を打ち、暖かい布団にくるまる。そうした幸福感に包まれながら、「かい大様」と書かれている年賀状を引き裂いた。彼のミスは、これで4年連続である。