回復したい日々

いろいろ書いてます

ぜんぶあんたのせい

 

アニメや漫画を見て、面白かったり悲しかったりするたびに「作者」という存在を思い出してしまう。つまり、主人公が挫折したり成長したりすることは「作者」という神的存在によって操られた結果なのであり、それは自分たちも例外ではなく、泣いたり笑ったりするのは神に操られている証拠である、と。これは自分が漫画やアニメで泣くことに対して恥ずかしさを覚える性分であることや、理由づけしないと自分の行動を説明できない性分であることにも由来しているかもしれない。とにかく理由もなしに感情を揺さぶられることに耐性がないんだと思っている。

 

感情を揺さぶられるなんて大仰な言い方をしたが、ようはビビリということである。夜中に響く近隣の大声とか、土砂降りのなかで轟く雷とか、そういうものに逐一驚いてしまうし、幼稚なところで言えばホラー映画とかびっくり箱とか、なにが起こるか分かっているのにいちいちびくっとしてしまう。周りの友達にそのビビリ症についてからかわれるたびしょうがないんだとばかり言って笑っていたが、あながち間違いでもないかもしれない。漫画やアニメのように、僕たちの生きるこの世界にも「作者」みたいな人がいて、おそらく端役であるだろう僕のキャラクタープロフィールに「ビビリ」という個性を付与しているのだ。それはもう僕のせいではなく、この世を司るそいつのせいだし、今さら治しようもない。だって漫画の登場人物紹介欄には「ビビリ」と書かれているはずだから。もし僕がビビリでなくなる日が訪れるとしたら、「作者」によって個性が更新されるときか、作品自体が終了するか、つまり僕の人生が終わるかのどちらかである。

 

つまり、自分の短所にウジウジするのは時間の無駄だということだ。「この世の不合理は全部作者のせい」という考え方をすれば、世界はもっと優しさと平和に包まれるのではないだろうか。壁にぶつかるということはキャラクターの成長を描くということだし、いまが不幸でしかたない、ということはハッピーエンドまでもうすぐということかもしれない。なにが言いたいかというと、僕が大学生活で未だ友達が1人も出来ていないというのは、今後美少女とお近づきになるサインということである。